COLUMN 思い出の桜たち
Memories of cherry blossom trees
今朝、往診の途中に通りかかったら、「あの」桜の木がなくなっていました。
ほぼ寝たきりの患者さんと、その介護をしていた息子さんが住んでいた家の前の桜の木。
一生懸命に介護をしていたのに、病とは非情なもので、その息子さんに「進行がん」が告知されました。
春。
一緒に桜を見ながら、楽しそうにしていた二人の笑顔。
その翌年の桜を見た後ほどなく、息子さんは逝かれました。ほぼ寝たきりのお母さんを残してどんなにか心残りだったでしょう。
そして、それを追うように、患者さんも静かに旅立たれました。息子さんにとても会いたかったのだと思います。
人は、生まれたからには、誰もが亡くなります。亡くならない人はいません。それは自然なことです。
親子二人が寄り添い合って、とてもとても頑張って生きていたこと。
「どのように生きたいか、どのような最期を望んでいるのか」この問いに絶対的な答えはありません。
桜の時期になると、毎年この患者さんのことが思い出されます。
「飛鳥山公園の満開の桜を、もう一度だけ見たい」そんな希望をお持ちになっている患者さんは、ほぼ寝たきり状態でした。
飛鳥山公園の桜を見ることはできなくても、どうにか自宅前の桜を見せてあげたいと思いました。
2階で療養されていた患者さんの部屋から1階まで続く階段を車いすでは降りることができません。往診し同行している医療コーディネーターと私で、車いすにお乗せして、車いすごと自宅前まで担いでその立派な桜を見に行きました。
ご自宅の前にある桜は、実は、飛鳥山公園から苗木のままいただいてきた桜でした。先立たれた息子さんが生まれた時にいただいてきた、大切な桜でした。樹齢60年。
患者さんが、教えてくださいました。
点と点がつながりました。「こんなに立派な桜だったとは知らなかった。本当に立派に育ってくれた」。まるで、息子さんに語りかけているようでした。
車いすに乗って桜を見上げる患者さんの姿。
改めて、在宅医療の意味を考えさせられました。
患者さんが、どう生きたいのか。
どのような最期を望んでいるのか。
「私が、患者さんの家族だったらどうするか」
そう考えることもまた、在宅医療の在り方ではないでしょうか。
散る桜残る桜も散る桜 良寛